昭和52年7月22日   朝の御理解 ●②   大坪かよこ

御神訓
 信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。



 これはどういう信心とか、真心と書いてしんじんと読ませてあります。いわゆる真心の道を末の末まで教え伝えよ。もちろんこの信心は、いわゆる神信心の信心にも通ずるわけですね。末の末まで教え伝えられるほどしの信心とは、どういう信心。
私は段々信心を頂いて分らして頂くことは、何がなんと言うても信心が一番大切だというところから分っていかなければいけないと思う。
なにがなんと言うても信心が一番大切、皆さんの場合、信心が一番大切なものになっておるかどうか。
一億円の金をやるから信心をやめろと言われたら、ひよっとすりゃやめる人が沢山やめるかもしれませんね。
いくら金が値打ちがないというても、やはり一億円といや、もう大金、いま一億円やるから、信心をやめろと言われたら、やめる人が沢山あるかもしれません。
もう、これは椛目の時代で、大変熱心に信心をしておりました方が、事業がおもわしくなくて、ま、あちらこちらにもう多額の借金がでけましてね。ところが、創価学会の人に、あってその借金を私が肩代わりしてやろうちゅうた。あんたが創価学会になるなら。も、私はあん時にびっくりしましたが、四,五日参って来んと思いましたら、手紙がきました。
もうそれこそ、親先生のためなら命もいらんと言うほどしにいうておったんです。
そして実はこうやって創価学会に入りましたから金光教辞め、それも、ああ言うふうに書かなければならんのでしょう、もう実にえげつない表現で、断って、断ってというか当時の椛目の信心は止めますというてきました。
その後も、何回も総代さん方、また、御導きに行かれましたけれども、最近聞かせて頂きますと、いよいよお商売の方もだめになって、ま、困っておるという話も二十年にもなりましょうか、ね、ほんに自分が今困っておる、お金に困っておる時にその、お金を立て替えてやろうと言うた。あんたが創価学会なら、そしたらもうあれほどしに一生懸命信心しよったのが、もう結局、その一生懸命の信心が、ただおかげ頂きたいの一念が、あの一生懸命だったんだなー、ほんとに親先生のためなら命もと言いよったけれども、あれもやはりおかげを頂くためのゼスチャーにすぎなかったのだろな、と言うことになります。
ね、まあ、そしてそれから段々おかげを頂いておれば、まだいいんですけれども、まだ今でも、私はその人のことを、ま、祈らずにはいられませんから祈っていますけれども、私どもの頂いておる信心というものがね、も、何よりも信心が一番大切だという、いうならば真心の道、いうならば合楽の信心というてもいいでしょう。
合楽がいかん時には何何様がござるからと言ったようなものでなくて、なら合楽に行ってこうやって信心が、ね、いうなら真心の、真の信心だと、ま、段々分らして頂いたら、ね、たとえ一億の金をやるからやめろと言われても、ね、もうほんとに、それこそ微動だもしない信心、そういう信心を私は身に付けたいと思います。それこそ一にも神様、二にも神様と言う信心であります。
昨日、生神への道、ね、この方ばかりが生神じゃない、ここに参っておるみんなも、生神じゃと、この方がおかげの受け始め、みんなもその通りのおかげが受けられるというあの御理解から、とにかく総生神を目指すのが金光教の信心だとこう言われてますけれども、その総生神を目指す者が、ね、ほとんど総生神を目指さんで、おるというか、あの、生神への障害の道ばかりを辿っておる。
ね、それには、何が障害になっておるか、邪魔になっておるかというと、私ども持っている観念が、生神への道を妨げておるという御理解でしたよね。
私、昨日も、ちょうど十二時一寸過ぎにここへ出て参りましたら、ここで一生懸命、大祓い信行をしておるのは、ま、暗いからよく顔は分りません。けれども、みんなあの、丸少の子供たちばかり七、八人一生懸命、大祓い信行やってました。
ね、こう言うふうにして信心がま、育って行く。
昨日も中島力君の例を話しました。
ね、もう親先生が言われるのなら右もなからなければ左もない。もう、はい、と言うてその、信じれておるということは、素晴らしいことです。
ね、だからいうならば、子供達に親が勉強せれ勉強せれというけで中々勉強せん。それが原因が合楽に合楽にというて、その行くもんだから、勉強が、勉強がおろそかになる。
ね、これでは、いくら神様でも喜びなさらん。勉強してから信心、というならば、勉強の方を先にとろうとする親達、ね、もちろん子供が合楽にいっときゃ勉強せんでよかけんでといったような怠け心ではいけないでしょうけれども、ね、親の信心のしつけというものが、ね、もうこの人がたとえ勉強がでけんでも、あれほど合楽合楽と言うておるのであるから、言わんでんよか、もう合楽を言わんごつなったときにはどうか言わにゃならんというくらいな気持ちでおりますならね、いいです。
ま、昨日そういうお話を聞いて頂いた。昨日は、その頃非常におかげを頂いた方達が何人もございました。
また、もう、おかげの事実を、あの信心と勉強とが、ね、あの、相対しない、一つになるという事実を昨日は久留米の稲垣さんが親子で参っておりましたが、いまあの娘さんが、は高校です。
ね、成績があまり良くなかった。合楽へ、お母さんのほうも、が、あのように一生懸命ですから、一生懸命、自分もそれで丸少に入って、丸少の御用で一生懸命通ってくるんです。ところが丸少に入った時点から、ずーっと毎年毎年成績が良くなったというんです。
昨日は、今日の御理解の後に親子でここでお届けされるんです。
ね、だから反比例しないということです。結局、ね、あんた大丈夫の、合楽ばっかり行ってから、勉強はせんの、こんな考え方だから、勉強もいかんし信心もいかんちゅうごっなってくる。信心を一番大切なものとして、なら、稲垣さんはおられた。なら、子供も、ね、合楽にいっとりゃ勉強せんで良いちゅうことじゃなくて、やはり勉強もさせて頂いた。勉強と信心が、一つになる。そしたら不思議な不思議な働きで、毎年毎年成績が上がっていくばっかりだ。
もう今日の御理解いただいて、ほん、まさにそうだと思いましたというお届けがございました。
ね、信心のおかげのしょう、障害、邪魔になっておる、あんた合楽にばっかり大丈夫かといやせんでも心に思とりゃ、もうそれが障害になるちゅうことです。
それが今、今日申しますように、信心が一番大切なものだとほんとにわかっとりゃ、もうほんとに子供が合楽合楽と言うてくれることは、お礼の対象にしかならないはずです。
ね、信心も合楽でもちった考えてもらわにゃ、合楽合楽と言うて勉強もでけん、と言うような親の考え方が、だからおかげが受けられんと言うことが分ります、親いわば、子供のためには、勉強が第一番と思うておることでは、どのような場合であっても、信心が一番大切だという、いうなら観念に立っての、信心じゃなからなければならないということですよね。
一つ自分の信心をいよいよ確かめてみなければいけません。
自分の信心は、果たして信心が一番大切だと頂ききっておる信心であろうかと。
何かここに困っておる、不自由な時、それを、なら、あんたに上げるから、ね、信心をやめなさいというたら喜んで止めるというような人がひょっとすりゃあらせんだろうか。
ね、これではね、私は末の末まで伝わって行かれないと思う。
信心をただ生活の手段、商売繁盛のために、金銭のお繰り合わせを頂くために、病気を治して頂くために信心をしておるといったようなことでは、ほんとの信心も分りますまいし、末の末までも教え伝わらないです、これでは。
昨日は日田の井出さんの父さんの八年になられる、亡くなられて八年になられる、ちょうど帰幽日でしたから、帰幽祭がございました。
いわゆるお立ち日です。神様にそのことをお礼申さしておりましたらね、そのことね、それこそ痒いところに手の届く思いで、?御霊が喜んでおるというようなことを頂きました。
ね、これは人間でもそうでしょう。ここだけは自分の手じゃ届かんと言うところがありましょうが。
御霊も同じこと。もうそれこそ生前お父さんがお好きであっただろうと思われる、も、それこそ、ま、様々なお供え物をいっぱい、用意されて、そしてその御霊様へ・・・?ということです。
もちろん、姉さんたち夫婦、それにお姉さん子供まで、ね、あれが式年祭かなんかと言うならね、そりゃもう、ですけれども、帰幽日した。
ほいで御霊様にご挨拶させて頂きましたら、もぅ何て言うですかね、大変な、助かっておるというよりもあちらで一生懸命、それこそ有難い修行がでけておられるという感じだった。
言うなら十年の式年を目指して、ね、私どもがなら十年の記年祭なら記念祭を願うでしょう。同じです。御霊も十年なら十年の記念祭にやっぱり、子供たちや孫たちの、に対する祈りと、また自分自身もまたいよいよ助からんならんという、ですから私、この人は生前信心があったのかなと思いました。●② お礼申させて頂いとりましたら、あの、トウキビのお知らせを頂いて、もうあの赤頭と言いますね、うえにこう、その赤頭がもう半分ほど真黒になって、こりゃ、もうやんがてそのちぎられるられるちゅうですか、もぎ取られるちゅうですか、ってもいいなというぐらいな、それをあの、こうやって皮を上を少しむいて見せる、て下さるんですよ。
そしたら下の方はいっぱい入っとるけど、まだ上の方は、まちっと入っとらんという感じのところを頂きました。
いうなら、この赤頭が真っ黒になってしまったときが、実がいっぱい入る時です。
ね、もちろん赤が黒になっていくわけですけども黒と言うことは、修行だと私は思いました。
今はもう、ここ一、二年である意味での修行が成就する、十五年の式年祭には御霊の位も一段と進んで、ね、安心の御霊、喜びの御霊としてのおかげの頂けることのために一生懸命修行しておる。これは信心が分らなければでけることじゃない。真の信心が身に付けておらなければ、分るこつじゃない。
ね、お互いがなら、御霊様それこそ飲んで食うてちよい、というようなことで信心しただけの御霊と言うものの、その哀れな姿というものは、もうほんとに、もう言うならね、ちょうどミミズがウジ虫か、ごじゃごじゃやってるのと同じような、それでいて、もう御霊の世界ちゃこげなとこだと思い込んで、あきらめ果てておるという御霊が多いです。
ほんとにそういう意味でね、私どもがこの現世におかげを頂いたということは、確かに魂を清めに来ておるのですから、もう何を置いても、信心第一と言う頂き方にして一切を磨いていくこと改まっていくことに焦点を置いてこれを極めておかなければ、行けるところじゃないということです。
ね、心に光を持っておるから、自分の光がそのままあちらに行っても、なら、光明の世界に住むことがでけるというのであり、修行ということがどんなに大事なものか、有難いものかということを思い込んでいっておるから、その御霊は一生懸命の修行をさせて頂いておる。
そういうごちゃごちゃしておる所からも、抜きんでて、ね、一生懸命御霊ながらの助かりを願いながら修行を魂がしておる。
でその後に聞かせて頂いた・・?私の父はお話はあんまり頂いておりませんけれども、日田教会にご縁を頂いて、もう日田教会の御用というたらもう、ほんとになにを置いても御用させて頂いた人でした。そうじゃろうなー、と言うて私は、あの、後で話したことでした。もう御用というたらなにを置いても、だから言うならば信心を第一としておられたお父さんだったということが分ります。
ね、それが言うならばあんまり信心に心が向かなかったなら御主人もああしてお参りになられるようになり、ね、しかもその垢ぬけた思い方をして、信心を進めていかれる。
もちろん奥さんも、毎朝朝の御祈念に参って来る。夏期信行にも通ってくる、と言うような熱心に、孫たちもここで、丸少のおかげを頂きながら、いうなら信心が、ね、末の末までもそのようにして伝わって行きよる。
信心が一番大切な物。ちった勉強がおろそかになるかも知れんけれども、この人が、合楽合楽と言うて通うておる間は、大丈夫と言ったような思い方が、ね、信心が第一、一番大切だと思うとらなければ、ま、大丈夫か、あいつは、合楽にばっかり行きよるが、ちった、言わんやいかんぞ、ちゅうてから、自分な言わにゃ、嫁ごさんに言わせる人があるです。ね、それじゃもう芯が、家の中心が一番大切なものと頂いてない。いうならば、ね、いうなら便利で信心をしておるというても良いくらいなこと。
今日、私は、ね、信心の道を迷わず失わず、ね、素晴らしい条件を出されたら、信心止むるなら、その条件を叶えてもらうなら、というこれもう既に迷うたわけ。
ね、だからそういうことで迷うことのない信心を確かめながら、信心を進めて行かなければならない。
自分は果たして、信心を一番大切なもの、あの世この世を通してのことなのだから、もうもちろん一番大切なもの、としての頂き方ができて始めて、ね、いうならば観念に縛られることもない、ね、またはどういう好条件を出されても迷うことのない、ただひたすらに信心のいわゆる真心の道を追求していくと言うことだけになってくる。
そして、なら魂の世界に入ってもです、やはり蓮の台で、ちゃんと極楽いっとるといったようなものではなくて、やっぱり、ね、私どもが生涯であるように、魂の世界に入っても修行だけは限りがない。
ね、その限りない修行に取り組まれるくらいな、信心を頂いておきたい。
それには何と言うても、何が大切と言うても信心が一番大切と言うところまで信心が高められておかないと、またその思い込みがなからんと、ね、いよいよん時に、迷いが生ずるということであります。どうぞ。